この記事は、壬申戸籍シリーズ全8本構成の5本目です。
壬申戸籍シリーズ全体の流れや制度の位置づけを最初から確認したい方は、1本目の以下の記事から読むと理解しやすくなります。
壬申戸籍(明治5年式戸籍)とは?日本初の全国戸籍制度の全体像
前回の4本目の記事では、壬申戸籍に記載されていた内容を見ながら、この制度が単なる身分記録ではなく、人と家と地域社会の実態を広く書き込む制度だったことを解説しました。
壬申戸籍の記載内容とは?宗旨・氏神・妾・附籍などの実態を解説
今回はその続きとして、壬申戸籍がなぜ改正され、明治19年式戸籍へ移行していったのかを解説します。
壬申戸籍は、日本初の全国統一戸籍として大きな意味を持つ制度でした。しかし一方で、この制度は完成形ではありませんでした。むしろ、近代国家が戸籍制度をどのように作るべきかを模索する中で生まれた、過渡期の制度という性格が強かったといえます。
壬申戸籍の改正理由を理解すると、戸籍制度が最初から今の形だったわけではなく、試行錯誤の中で作り替えられてきたことが見えやすくなります。
壬申戸籍は全国統一制度としては画期的だった
まず前提として、壬申戸籍は失敗作だったと単純に言える制度ではありません。それまでの日本では、住民把握は宗門人別改帳のような地域単位の仕組みに依存していました。それに対して壬申戸籍は、明治政府が全国民を一つの制度で把握しようとした最初の本格的な戸籍でした。
その意味で壬申戸籍は、
・中央集権国家の基礎を作る
・人口把握を全国統一の制度に乗せる
・徴兵、課税、身分管理の土台を作る
という点で大きな役割を果たしました。
ただし、最初に全国統一制度を作ったことと、それが長期的に安定運用できる完成形であったことは別です。壬申戸籍はまさにその違いを示す制度でした。
壬申戸籍は書き込む情報が多すぎた
壬申戸籍が抱えていた大きな問題の一つは、制度として抱え込む情報の範囲が広すぎたことです。
前回見たとおり、壬申戸籍には
・続柄
・婚姻や離縁
・養子関係
・宗旨
・氏神
・妾
・使用人
・附籍
・職業や生活状況
など、現在の戸籍とは比べものにならないほど広い情報が書き込まれていました。
これは一方では、国家が社会の実態を細かく把握するうえで便利でした。しかし他方では、制度として非常に重く、扱いにくいものにもなりました。
戸籍に何でも書こうとすると、
・何をどこまで書くのかが曖昧になりやすい
・地域ごとに運用差が出やすい
・私的すぎる情報まで入り込みやすい
・統一制度としての精度が下がる
という問題が起こります。
つまり壬申戸籍は、社会を広く把握しようとしたがゆえに、制度としては抱えすぎてしまった面がありました。
地域差が大きく全国統一制度として不安定だった
壬申戸籍は全国統一戸籍として作られましたが、現実の運用では地域差がかなり大きかったとされています。壬申戸籍の構想そのものは全国統一でした。
しかし現場では、
・記載内容の細かさ
・宗旨や氏神の扱い
・附籍の考え方
・生活実態の書き込み方
などにばらつきが出ました。
これは、制度そのものがまだ新しく、全国で一律に運用するための基準や実務能力が十分に整っていなかったためです。結果として、壬申戸籍は、全国統一制度として出発したが、現場では統一しきれなかった、という矛盾を抱えることになります。この矛盾はかなり重要です。
なぜなら、戸籍制度は国家の基礎台帳である以上、全国どこでも同じ考え方で動くことが強く求められるからです。壬申戸籍は、その意味で制度としての発想は新しかったものの、運用面ではまだ不安定でした。
家の実態を書き込みすぎる制度は近代法に合いにくかった
壬申戸籍の記載内容は、家の実態をかなり広く取り込むものでした。しかし、近代国家が法制度を整えていく中では、これは必ずしも都合のよいことではありませんでした。
近代法では、本来
・誰が法的な親族なのか
・どの関係が法的に意味を持つのか
・国家がどこまでを公に記録するのか
を明確にしていく必要があります。
ところが壬申戸籍は、家族関係だけでなく、家の内部にある生活実態や従属関係、地域共同体との結びつきまで書き込もうとしました。これは、社会の実態を把握するには便利でも、法制度としては線引きが曖昧になりやすいという問題を持っていました。
つまり壬申戸籍は、「生活の実態を映す制度」であると同時に、「法制度としては輪郭がぼやけやすい制度」でもあったのです。この点は、近代的な戸籍制度として再設計していくうえで、大きな課題になりました。
国家は家を把握したかったが、把握の仕方を変える必要があった
壬申戸籍では、個人ではなく家が把握の中心になっていました。この発想自体は、明治初期の国家にとってかなり重要でした。徴兵、課税、人口把握、身分管理のいずれを考えても、当時の国家にとっては個人より家を単位に見る方が管理しやすかったからです。
ただし、家を把握することと、壬申戸籍のように家の実態を広く書き込みすぎることは同じではありません。国家に必要だったのは、家という単位を維持しながらも、より統一的で、より法制度に適合し、より管理しやすい戸籍制度でした。
つまり、壬申戸籍の改正は、「家を捨てた」のではなく、「家を把握する方式を作り替えた」と理解した方が正確です。この視点を持つと、壬申戸籍から明治19年式戸籍への移行は断絶ではなく、家を中心とした国家統治の再設計として見えてきます。
明治19年式戸籍への移行は戸籍制度の再構築だった
明治19年式戸籍への移行は、単なる小さな修正ではありませんでした。それは、戸籍制度そのものの再構築に近いものでした。
壬申戸籍の段階では、
・全国統一制度としての運用が不安定
・地域差が大きい
・記載内容が広すぎる
・近代法との整合性が弱い
といった問題がありました。
そこで、より安定した国家制度として戸籍を作り直す必要が生じます。この流れの中で整えられていくのが明治19年式戸籍です。
ここで重要なのは、明治19年式戸籍が単に新しい戸籍というだけではなく、壬申戸籍で見えた問題を踏まえて、国家がより使いやすく、より統一的に、より法制度に合わせて戸籍を再設計した結果だということです。
壬申戸籍は完成形ではなく過渡期の制度だった
ここまでを踏まえると、壬申戸籍は日本最初の全国統一戸籍として大きな意味を持ちながらも、完成形の制度ではなかったことが分かります。
それは、
・発想としては近代国家的だった
・しかし運用はまだ不安定だった
・社会の実態を広く取り込みすぎていた
・法制度としては曖昧な部分が残っていた
からです。
つまり壬申戸籍は、「近代国家が最初に作った全国戸籍」であると同時に、「その国家が戸籍制度をどう作るべきかまだ掴み切れていなかった時代の制度」でもありました。
この意味で壬申戸籍は、完成された制度というより、近代日本が戸籍制度を試行錯誤しながら組み立てていた時期を示す制度だといえます。
壬申戸籍が短期間で改正されたのは制度として背負いすぎていたから
壬申戸籍は、国家が人と家と地域社会を一気に把握しようとした制度でした。その意欲は大きかったですが、制度としてはかなり多くを背負いすぎていました。
・統治の基盤
・家の記録
・地域共同体の把握
・生活実態の把握
・身分管理
・宗教的所属の記録
これだけのものを一つの制度で担おうとすれば、無理が出るのは自然です。
制度の成立時点ではそれでも必要だったのでしょうが、いざ国家制度として安定させようとすると、もっと線を引き、もっと統一し、もっと扱いやすい形に変える必要がありました。
壬申戸籍が短期間で改正されたのは、制度の価値が低かったからではありません。むしろ、日本の近代国家形成にとって重要だったからこそ、その不安定さや限界も早く露呈したのです。
壬申戸籍から明治19年式戸籍への移行で何が変わったのか
ここで詳しい比較までは立ち入りませんが、壬申戸籍から明治19年式戸籍への移行によって、国家は戸籍制度をより統一的で、より法制度に合った方向へ動かしていきます。
その意味では、
・壬申戸籍が近代戸籍の出発点
・明治19年式戸籍がその再設計の第一段階
と見ることができます。
壬申戸籍があったからこそ、何が足りず、何が多すぎ、何を改めるべきかが見えました。つまり壬申戸籍の改正は、失敗の修正というより、制度の試行から得た教訓にもとづく再構築だったのです。
まとめ
壬申戸籍が改正された理由は、単に古い制度だったからではありません。
その背景には
・全国統一制度としての運用の難しさ
・地域差による管理の混乱
・生活実態を広く書き込みすぎたこと
・近代法制度との整合性の弱さ
・家を把握する方式の再設計の必要性
がありました。
つまり壬申戸籍は、日本最初の全国戸籍として大きな意味を持ちながらも、完成形の制度ではなく、近代国家が戸籍制度を模索していた過渡期の制度だったのです。
この点を理解すると、壬申戸籍から明治19年式戸籍への移行は、単なる古い戸籍から新しい戸籍への交代ではなく、国家制度としての戸籍の再構築だったことが見えてきます。
次の6本目の記事では、壬申戸籍がなぜ現在は取得も閲覧もできない戸籍になったのか、その歴史の影の部分を解説していきます。
壬申戸籍が閲覧禁止になった理由とは?差別問題と昭和43年事件を解説
相続の戸籍まわりの全体像は
▶相続の戸籍の集め方と必要書類|解説記事一覧
にまとめています。他のケースや手続きも含めて確認したい方は、あわせてご覧ください。
